Photo by Gabriel Benois on Unsplash

先日、僕が参加するコミュニティの中で「ラジオ愛を語る」というオンライン企画が行われました。

企画の中身はと言いますと、1日の意識のある時間のうちはラジオを聴いて生きているという一人の女性が、ラジオを「愛する気持ち」を参加者にひたと語るというものでした。

僕もラジオが好きで、個人的にもPodcastをやっていることもあって会を進行するための聴き手をお願いされたわけですが、その方から溢れ出る愛は想像以上で、聴いているこっちがとてもしあわせな気持ちになりました。

愛もウィルスのように感染るのか、僕のラジオ愛も増幅しました。

会の中で僕からオススメさせてもらったラジオ番組です。

なくてもいいものやなくてもいいことで人生は支えられている。

きっと人間はそういう生き物なんだと思うんです。

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会が終わったあと、あらためて「愛」について考えたりもしました。

「愛」って一体何なのでしょうか?

この問いは人間にとって永遠のテーマだと思いますが、僕はよく文筆家である松浦弥太郎さんの言葉を持ち出します。

今まで生きてきてこれほど腹落ちした定義はなく、自分の言葉のように使わせてもらっています。

そして、このタイミングだからこそ、もう一度自分の中の引き出しから取り出して反芻しておきたいものでもありました。

これによれば、どんなに自分がその人のためになると思っていても、相手が生かされないのではあればそれを愛と呼ぶことはできないのです。

「愛とは想像力である」という定義も時々耳にしますが、相手を生かすためには想像力が必要、というロジックだと解釈しています。

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今、「愛」への価値が極めて高い時代だと思います。そして、新興感染症COVID-19はその価値をより一層高めていくことでしょう。

なぜならば「生きる」ことへの価値が、個人にとっても法人や事業者にとっても急激に高まっていくからです。

それぞれがしあわせに「生きる」ために今まで以上に愛を必要とする社会になり、こうした社会では愛する気持ちが育まれている人はより生きやすく、そうでない人はより生きにくくなっていくのだと思います。

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COVID-19は、愛への価値をより一層高める一方で、愛する気持ちを育むことへのハードルを同時に上げていると思います。

今多くの活動がオンラインに変わって人に直接会うことが激減しました。

これによって、今まで愛する気持ちの源になる想像力を育む主戦場となっていた「オフライン」が機能不全に陥っています。

この状態はこの先もずっと続いていくと思いますし、オンラインから「フルオンライン」へと世界は進んでいくことでしょう。

これによって現実世界と仮想世界の主従の逆転現象も起こります。

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愛の価値がより一層高まる社会の中で、今まで想像力を育んできた場所を失った僕たちは一体どうやって想像力を育んでいけばいいのでしょうか。

僕の頭の中には大きく二つの考えがあります。

一つは徹底的にオタク化すること。

もう一つはフルオンラインを受容し、その中で今まで以上に想像力を働かせることです。

打ち合わせや飲み会だけでなく、商談も接客も展示会も、次々とフルオンラインに変わっていくと思いますし、企業の文化をつくることもフルオンラインに変わると思います。

そして、フルオンライン上での行いが評価にもつながります。「今までもそうだったじゃないか」と思うかもしれませんが、今まではあくまでオフラインあってのオンライン。フルオンラインとはわけが違います。

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「フルオンラインの中で、愛する気持ちを育むためには」

これを当面の間、重要テーマとして掲げ、今までの行いを見直し、アップデートをかけていこうと考えています。

例えば、言葉遣い一つとっても、オフラインがある場合と、フルオンラインでは相手に与える影響をもっと微細に考えなければいけない、という感じです。

「愛」って、小学校の教室に貼ってあるような言葉ですけど、時代を超えて教室に残り続けているだけあって、世界がどんなに変わろうとも、大切な真理の一つだと思うんです。

それでは今日はこの辺で。


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僕たちが生活したり、仕事をしている中で起きる「問題」は何かと「分断」が原因となっていることが多いと思います。突き詰めるとほとんどのことがそうなんじゃないでしょうか。

「分断」によって「問題」が起きているというロジックです。

これは、今人類の問題として考えなければいけない「社会問題」や「環境問題」もそうだと思っていて、

東京と地方、経済学と倫理学、日本文化と西洋文明、森と里と海川、生産と消費、モノと心、ヒトとヒトを繋ぐ絆、家庭や親子、世代、リアルとバーチャル、川上川下、自然と共同体とヒト….

あげればキリがないのですが、ここで挙げたような様々な分断が、おたがいに複雑に絡み合って社会問題や環境問題が起きていると捉えています。彼方を立てればこちらが立たずのようになっているため解決するのが難しいわけです。

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先日、社会派ブロガーのちきりんさんが「壊滅度別の業界リスト(新型コロナ編)」というタイトルのブログを投稿していました。

この中で、前回のリーマンショックと今回の新型コロナショックは経済と社会に及ぼす影響がかなり違うと言及されています。

違いその1

グローバル大企業ではなく、ローカル中小企業やフリーランスに打撃

違いその2

需要減ではなく需要シフト。対応力が問われている

詳しくはちきりんさんのブログを読んでいただければと思うのですが、壊滅度別の業界リストと照らし合わせると色んなことが頭をめぐります。

大きな点でいうと、ここでも「分断」が起きるなということ。

あたらしい分断が生まれるということは、既存の分断と組み合わさりまたあたらしくむつかしい「問題」が発生してくるのだと思います。

この流れは可逆ではなく不可逆だと思います。

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このような問題を私たち人類がクリアしていくための基本戦略は「分断を繋ぎ止める」ことだと思っています。分断してしまったもの、分断させてしまったものを「再統一」していくのです。

再統一というと昔に戻るようなイメージを持つ人もいるかもしれません。

しかしそうではなく、むしろテクノロジーや先端技術を使うことで分断を繋ぎ止め、分断のない新しい世界をつくるようなイメージです。

古代社会の日本は「結ぶ」と「立つ」によって作られたという説がありますが、これに従うと「結ぶ」と「立つ」は日本を象徴するジャパンコンセプトだと言えます。

分断を繋ぎ止めるも、再統一するも、このコンセプトをこれからの時代に合わせて形にしていくことなのかなと思うんです。

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ポケットマルシェというサービスがありますが、ポケットマルシェ(通称ポケマル)は、全国各地の農家さんや漁師さんからインターネットを介して直接買い物ができるアプリです。

生産者がポケマルをつかって、その時々の旬の食材を自分で値付けをして販売します。そして、それを買いたいお客さんはポケマル上で生産者にいろいろと質問することができる。

マルシェというと、国連大学の広場で毎週末行われているマルシェのようにリアルのイメージ先立ちますが、そのマルシェがなんと「ポケットサイズ」になったということです。

ポケットの中にマルシェがある。だからポケットマルシェです。

HPを見るとポケットマルシェの「MISSION」が記されています。

Connect The Pieces

個と個をつなぐ

生産者と消費者は、大量発生・大量消費の社会の中で分断されてきた。
もはや自分が消費する物を誰が作っているのかわからず、自分が作っている物を誰が消費するのかもわからない、という状況だ。

相手の顔を知らないから「分断」が起こる。
生産者と消費者が顔の見える「個」として知り合って関係を深められる場を作り続けられることが、ポケットマルシェのミッションである。
「個」を再生し、人と人とを直接つなぐことで、私たちは世界の景色を変える。
無彩色から百花繚乱の世界へ。

大事なのは、人と繋がることを楽しい体験にすることだ。
楽しい体験であればこそ、そのつながりは価値になる。

分断を繋ぎ止めるって、まさにこういうことだと思うんです。

コロナショックで分断されてしまうものもきっとあります。

でも、分断が進むスピードよりも早いスピードで繋ぎ止めていくことができれば大きな問題にはならないと思います。

分断を繋ぎ止めていく先にあるのは、結ぶからそれぞれが立つ百花繚乱の世界。このイメージを持って歩を進めていきたいと思います。


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こんな状況だからどこもかしこも大変だろうとは思いますが、僕はというと企画書を作ってはお客さんにお送りしています。

妥協なくしっかり考えた企画書ですが、その内容以上に「今はとっても大変な時期ですけど乗り越えた暁にはこんな面白いことを一緒にやりませんか?だからお互い踏ん張って乗り越えましょう!」という気持ちを込めたお手紙的な側面の方が大きいです。


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何かをコントロールできてる時は、気持ちがいいし、幸せになれるし、この次もがんばろうと活動的になれる生き物が人間だと思います。

身近な例で考えてみてください。

今まで解くことのできなかった数学の問題がスラスラと解けた時。

使い方の分からなかったソフトが自由に使えるようになった時。

サッカープレイヤーであれば、自分の思うままにボールコントロールが出来た時。

こういう時ってきっとほとんどの人が気持ちいいと感じるはずだし、しあわせな気持ちにもなるだろうし、この次もまた頑張ろうと思うはずです。

ではなぜこのようなことが起きるかというと、それは人間の中には食欲、睡眠欲、性欲の3大欲求以外に、それらと並ぶくらい強度のある「コントロール欲求」というものが備わっているからです。

何かをコントロール出来ていることがこの欲求を満たし、僕たち私たちの感情や行動の引き金になっています。

食欲、睡眠欲、性欲の3つが顕在化してくる以外の時間は、このコントロール欲求を満たすために使われていると考えることもできます。

そのくらい僕たち私たちにとっては大きな存在です。ちなみに、コントロール欲求については、以前この本を読んで学びました。

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そして、この欲求が思いのほか強すぎるがゆえに「なんでもコントロールできるもの」と思っている節が人間にはあると思っています。

一度コントロールの味を占めると、満たされるまでそれを続けよう、広げようとしてしまい、遂にはコントロールできないようなものもコントロールをしようとしはじめます。

例えば、それは「他者」であったり「自然」などが挙げられます。

でも、今さら言うまでもないことですが、コントロールできないものをコントロールしようとするのは絶対にやめた方がいいと思います。

なぜなら、先ほどコントロールできると気持ちがよくなって活動的になると言いましたが、それとは全く逆の結果になってしまうからです。

「コントロールできている」という幻想に包まれている一瞬はとても気持ちがいいかもしれませんが、その幻想が解けた後には、相手先にはもちろん自分にとっても全くいいことになりません。

だから、他人をコントロールしようなんて絶対に思わない方がいいし、しない方がいいんです。

こうやって他人をコントロールするのはよくないと頭では分かっていてもやっぱりしようとしてしまうんです。それは人間だから。人間らしいなと思う反面、この状況に悩んでいる人が多いのも事実だと思います。

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では、どうしたらいいのでしょうか?

僕の中での現時点での仮説は「自らがコントロールできるもので欲求を満たすように努める」ということです。

どういうことかと言うと、どうしても他人をコントロールしたくなってしまうのは、要するにその人が「コントロールの欲求不満状態にある」と思うからです。

欲求不満と考えれば、何かで欲求を満たさなければ死んでしまうので、その欲求を満たすために他者に目が向くのもごく自然のことなのかと。

であるならば、この状況を理解した上でどうにか他者でその欲求を満たさなくていいように欲求を満たす方法を考えます。そうすると答えは一つしかなくて、自らがコントロールできるもので欲求を満たすという道が浮上してくるんです。

自らがコントロールできるものというのは、例えば、決めたことを守るとか、できなかったものをできるようにする。など当たり前のように聞こえると思いますが本当にこういうことだと思うんです。

これらを軽視せずに粛々とやること。地道ですがこうすることでコントロール欲はきっと満たされていくはずですし、その結果他者との良好な関係が出来上がっていくのだと思います。

元マッキンゼー日本支社・社長の大前研一さんが以前、非常に参考になる意見を述べていました。

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人間が変わる方法は3つしかない。

1番目は時間配分を変える。

2番目は住む場所を変える。

3番目は付き合う人を変える。

この3つの要素でしか人間は変わらない。

最も無意味なのは「決意を新たにする」ことだ。

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これはつまり人間が自分でコントロールできる範囲もこの3つしかないということなのかなと。この中に「他者を変える」はありません。

他者を変えようとせずに、自分を変える。

この感覚が小さな成功体験とともに積み上がってきた時だからこそあらためて自分を戒めておこうと思った次第です。


Photo by Fritz Bielmeier on Unsplash

伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」の中にこのようなセリフが出てきますが、本当にその通りだなあと最近あらためて感じています。

「信用」については以前考えを少し書いていたので、

参照:他者の考えていることを類推する能力が高いから信用を貯められる

ここでは「習慣」について思うところをざっと書き留めておきます。

最近こんなツイートをしてみました。

現代の生活で目標から逃れることはとても困難だと思います。インターネットの中を覗けば存在することも知らなかった目標が沢山見つかりますし、求めもしていないのに目標は向こうからスタスタとやってくる。

こうして知らないうちに私たちは目標に縛られてしまっているのです。

ところが「目標を目指すという行為」は成功という報酬を味わう時間よりも、目標を追いかけている時間のほうがはるかに長いため、目標を持つということは慢性的な敗北状態でこの世に存在することになります。

一昔前、確かに目標は機能していたのかもしれません。それによって成長した部分も間違いなくあるでしょう。でもそれは未来が予測可能で確かだったからだと思うんです。予測可能だから遠い未来の報酬に向けてみんな頑張ることができたのかと。

でも今はその時と同じようにはいかないと思います。なぜなら、これはもう様々なところで語り尽くされていますが、現代は5年先いや1年先すらどうなっているか分からない超激変時代だからです。

先ほどのツイートにあるとおりですが、僕の今の考えはこのような時代においては目標は持つものではないとしています。なぜならば、目標は常に幸せを先延ばしにしてしまう性質を持っているから。

その代わりに持つべきは「長い目で見て幸せになる確率を高める活動を日常的に行い、1日1日充実した人生を積み上げていく仕組み」だと考えています。

もう少し具体的に言いますと、自分にとって「いい習慣」を取り入れるということです。いい習慣を取り入れて毎日の小さな勝利を積み上げていく。目標が機能しなくなった今、こういう行動こそ本当にジワジワと効いてくる時代なのではないかと思っています。

というわけで、今年に入ってから自分にとって「いい習慣」だと思うものを今までにいくつか取り入れてきました。

<毎日やっていること>

・断酒

・断煙(キャンプや飲み会でふと吸ってしまっていたのを断ちました)

・早寝早起き(23時半までに寝る、6時半までに起きる)

・朝起きたら白湯を飲む

・マイボトルを持ち歩く(中身は白湯)

参照:生き方を変えてくれた白湯

・足パカダイエット

・腹筋20回

・体重計測

・10分間本を読むor聴く(実際はもっと読んでいる)

<週単位でやっていること>

・1週間の振り返り

参照:一週間を振り返る時間をつくる

・ヒットした記事まとめ

・ヒットしたネーミングやコンセプトまとめ

いずれの習慣も今もうすっかりストレスなく行うことができている行動になっています。いわゆるルーティーンと呼べそうです。

このことを人に話すと「こんなに多くの習慣をどうやって取り入れているんですか?」と質問されることが増えました。でも僕自身、人間の「意思」だけに頼っていたらこんなことできるわけがないと思っています。

それは、人間の意思が超がつくほど弱いのを知っているからです。

だからこそ、頼っているのは自分の意思ではなく「仕組み」です。しかも、仕組みと言っても大した仕組みではなく「記録」という非常に簡単でシンプルな仕組みを使っています。

要するに、行動の習慣化をすすめていく前に「毎日必ず記録をする」という「習慣をつくるための習慣」を取り入れたということです。

記録の方法については色々調べたりして検討をしましたが「Daylio日記」というアプリが思いのほか使いやすくこれを使うようにしています。


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先日こんなツイートをしてみました。今回はこれについて少し補足をしておこうと思います。

試験の結果発表を待っているときはどうしても嫌な妄想をしてしまうのが人間です。既読スルーがこれだけ嫌われているのも、返信を待っている時に嫌な妄想がどうしても頭を巡ってしまうからでしょう。異性への告白の結果を待っているときも同様だと思います。

このように人は待っている間にどうしても「ネガティブな思考」になってしまいがちなため、待つことを嫌う動物なのだと思います。だからこそ、人間社会の流れとしては「待つ時間」をとにかく排除する方向に向かっていくというのは極めて人間が考える人間らしいことなのだと思います。

例えば、インターネットの世界においてそれはとりわけ顕著です。インターネット上のサービスは「スピードisキング」なので、これを実現するために、毎日ように改善・アップデートが行われ、あらゆるアプリケーションがより使いやすくより便利なプロダクトに進化していっています。

その結果、ユーザーである僕たち私たちは待つ時間が限りなく少なく、ストレスをほとんど感じることもなく、サービスに触れることができ、暮らしやすくなっていっていることは紛れもない事実です。

しかし、すべての物事には良い面・悪い面があるようにこの進化の背景には退化もセットになっているように僕は思います。それは、私たち人間は昔と比べて「待てなくなってきている」ということです。

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昔何かの本で読んだのですが、動物は「待つことのできる動物」と「待つことのできない動物」に分類できるそうです。

例えば、ネコやネズミは「おあずけ」することができません。でも、イヌの場合は、簡単な訓練で20秒は待つことができます。

サルは一分間は待つことができるし、チンパンジーならば五分待つことができます。そして私たち人間の待つことができる時間は様々です。

いずれにしましても、本質的に待つことが嫌いな私たち動物にとって「待つ」という行為は「高等な精神活動」なのです。とその本の中に書いてあったのを今でも鮮明に覚えています。

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それで以前、下記のようなツイートを見かけました。

「待つ」という時間をどう過ごすか、というところで、なんというか人生の豊かさみたいなものが決まるように思う。

これには強く頷いてしまいまして、全くその通りだと思いました。

要するに、待っている間に思考がネガティブモードになってしまうのであれば、このネガティブモードをクリアすることさえできれば、今よりもずっと人生が豊かになるのではないかということです。

ネガティブモードをクリアするためのポイントは「待つ」を感じさせないことだと思います。ちなみに、その方策は今の時点では二つあると考えています。

一つ目は「待つ時間から離れるそして忘れる」という方策。二つ目は「待つ時間をワクワクする時間に変える」という方策です。

一つ目の「待つ時間から離れるそして忘れる」という方策は、そのまんまなのですが、待つ時間から自分が離れるようにするのです。

例えば、目の前にスマホがなければ「既読スルー」も気にならないので変に妄想をしたりすることはなくなっていきます。ですので、僕は本当に必要な時以外はスマホをバックの中に入れたり、別の部屋においておくなどして物理的に離れるように心がけています。そして、物理的に離れて別の作業に集中をしていていくことで、待つ時間を忘れることができます。最近、スマホからメールアプリやメッセンジャーを完全に消したのもこの方策の一貫だったりします。

二つ目の「待つ時間をワクワクする時間に変える」ですが、これは待つ時間というのはネガティブモードになるものばかりではないということです。実は待つ時間が自分にとってワクワクする時間になるものは意外と存在しているのかなと思うんです。もし見当たらないんだとすると今はまだ出会っていないだけ。


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「妻に頼んで、生まれてはじめてマニュキアの予約を入れてもらいました。爪の手入れにお金をかけたら、もう噛まないだろうと思ったからです。するとうまくいきましたが、お金をかけたからではありませんでした。何が起きたかというと、マニュキアのおかげで、私の爪が初めて本当に綺麗に見えたのです。

そのうえネイリストから、噛んでいることを別にすれば、私の爪は実に健康的で魅力的だとまで言われたのです。私は突然、自分の爪を自慢に思うようになりました。そんなこと願ってもいなかったのですが、おかげですっかり変わったのです。

それ以来、わたしは爪を噛んでいません。思わず噛みそうになったことさえ一度もありません。それは今では爪をきちんと手入れしていることを誇りに思っているからです」

これはコロラド州の企業家ブライアン・クラークのエピソードです。

クラーク氏は幼い頃から神経症的な習癖としてずっと爪を噛んできたそうですが、この日をきっかけにして爪を噛むのをぱったりやめるようになったそうです。

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このように今まで誰も褒めてくれたことのない部分を褒められると「自分の長所」が一つ増えた気分になり、さらに褒めてくれた相手に対して「特別な感情」を持つようになります。

僕は以前、ソトコトの編集長に「声」を褒められたことがあるのですが、それからは「声も長所」と思うようになりました。そしてこの経験が心に深く刻まれ、また一人特別な存在が誕生しました。

ここから発想を拡げてもう少し考えると、もしも目の前にいる相手の中に、自分だけが褒められるポイントを探すことができれば、その相手にとって自分は「特別な存在」になるということなんだと思います。

特別な存在になることを目的にしてしまうと最終的に良い結果にはならないと思いますが「褒める部分によって相手の感じ方は違ってくる」ということは知っておいてもいいのかもしれません。

参照:大人が孤独になる仕組みと解決策

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とはいえ、相手を褒めることは非常に難しいことだと思います。

人が興味を持っていること=圧倒的に自分のこと」というデータもあるらしく、意識せずに生きていたらまずもって相手に興味を持つことさえもできません。

相手を褒めるためには「観察」が絶対的に重要だと思います。

観察という行為を基点にして、観察→分析→理解そして表現(褒める)というプロセスが、意識的にでも無意識的にでも成立しなければ相手を褒めることはできないと思っています。

このプロセスは、コミュニケーション、ビジネス、デザインなどにおいて高いクオリティを実現させるための基本的なフレームワークです。つまり「相手を褒める」はこれらと同じくらいクリエイティブな行為ととらえることができると思います。

相手を褒めることはクリエイティブである

このような形で自分の価値観を少しいじってみると、今よりも相手を褒めるに取り組みやすくなるのかもしれません。

参照:自分の言葉を持つ

それから、コーチングの講座では自分の長所や相手のよいところを100個リストアップするというワークがあると聞きますが、このようなワークも地味だし大変だと思いますが相手を褒めるいい訓練になると思います。

観察力がビシバシ鍛えられそうです。

誰にでも、もともと数多くの長所があります。焦点をあてて考えていないだけなのです。コーチング講座では、自分の長所やよいところを100個リストアップするワークがあります。これを体験された保護者のかたが、ご家庭で小学5年生のお子さんと一緒に取り組まれました。

参照:コーチングのプロが教える、子どもの自己肯定感を育むとっておきの方法

誰かにたすけられた人は、誰かをたすける人になっていくように、誰かに褒められた人は、誰かを褒める人になっていくと思うので、まずは僕自身が相手のことをしっかり褒めることができるように、自身の観察力に磨きをかけていきたいと思っている次第です。

それでは今日はこの辺で。


Photo by Ham Kris on Unsplash

何か新しいことをやるときによく「挑戦」と言ったりしますが、僕には戦うようなイメージは全くないので、挑戦という言葉を使うことに今までどこかしっくりきていませんでした。

「それなら自分がしっくりくる言葉に変えてしまえばいいじゃん」

2020年になってからふと思いまして。

それから少し考えて、これからは何か新しいことをやる時は「冒険」または「実験」と呼ぶことにしようと決めました。この決定ですが、小さなことだと思うかもしれませんが僕にとってはとても大きなこと。

最近書いたmediumはまさに自分にとって冒険であり実験です。

挑戦という言葉を捨てて、冒険や実験といった新しい言葉を使うようになってから気づいたことがあります。

それは、これらの言葉の方が挑戦よりもずっと「ワークする」ということ。そして、一番大きいのは挑戦よりも俄然「ワクワクする」言葉達ということです。

これはつまるところ「人の発想法はそのままでは使えない」といったビジネス・クリエイティブの世界の話にも通じてくると思っていまして、

本を読んで得た情報や、人から聞いた話は、自分の脳が動きやすいワードに変換して、自分好みの発想が出やすい状態に近づけていくことで、ようやく使いやすくなるものだと言われています。

君たちはどう生きるか」で著名な漫画家の羽賀さんが以前こんなツイートをしていましたがこれはその一例ではないかと。

こんまりさんの片付けにおける「ときめき」も好例だと思います。「自分の言葉を持ちなさい」と先人の方々はよく言っていますが「自分の言葉を持つ」が目指すところはきっとここなんだと改めて考えた次第です。

多くの人に使われて手垢がびっしりついた言葉こそ自分にとってしっくりくる言葉として捉え直す。2020年代はこういう「新しさ」もきっと多く見ることになるんだろうなあと思います。

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何のために「冒険」をするのか、何のために「実験」をするのか。

答えは「次に出会いたい何かのため」。これに尽きます。

以前書いたこのエピソードにも繋がりますが、

新しく何かに出会いたければ自分から動くしかないし、いい出会いは出会いつづけないと絶対にやってこない。

でも動き続けていれば絶対にいい出会いはやってくる。

そう信じています。


Photo by Ryan Jvr on Unsplash

今年の行動指針の一つである「血流をよくする」にしたがい、血流を悪くしそうな習慣は撲滅を進め、その一方で血流をよくする習慣は積極的に取り入れるようにしています。

美容院では「ヘッドスパ」をお願いするようになり、サウナ施設では「アカスリ」を頼むようになり、最近は白湯(さゆ)を飲むこともすっかり習慣になり、「血流をよくする」を起点にして健康意欲が爆上がり中です。

白湯を習慣に取り入れようと思ったのは、去年盛岡の「てつびんカフェ」で「てつびん白湯」を頂いたのがキッカケ。その時に飲んだ白湯がとてもやわらかくて、その体験からお湯にも飲み方があることを知りました。

その後、色々と調べてみると白湯は血液をサラサラにする他、水分補給だけではなく起き抜けの身体を温める効果、便通を促す効果など、血流をよくしたいと考える僕にとって習慣にしない理由はまったく見当たりませんでした。このような効果をもたらすのは白湯によって胃腸が温められ、胃腸が元気になるからということ。特に、民族的に胃腸が弱いと言われている日本人こそ白湯を飲むと良いようです。

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白湯の起源はインドの伝統医学「アユールヴェーダ」です。

水を火にかけることで火の性質が加わり、沸騰することで気泡が出て風の性質が加わる。白湯は「水・火・風」の自然にも人間にも必要な3要素を完全に満たすため、体のバランスをととのえる魔法の飲み物とも呼ばれています。

白湯もそうなのですが、今年になって飲むものはなるべく体が嬉しいものにしたいなと考えるようになりました。アルコールは飲まなくなり、コーヒーを摂取する回数も減りました。コーヒーを摂取する場合は1日に1回、しかもなるべく午前中に飲むといったルールにしています。

白湯と聞くと「男性向けではないのでは?」と思う人もいるかもしれませんが、2020年代はきっと女性が支持してきた良いものを男性が積極的に取り入れていく時代になる(逆もまた然り)と僕は思っています。

それから当然、白湯に関する本やwebの記事は読み漁っています。

最近読み終えた「カンタン! すぐ効く! 病気にならない「白湯(さゆ)」健康法」は図解も多めで頭に入りやすくオススメしたいです。

この本の中で一番の衝撃を受けたのは「花粉の原因はアーマ(未消化物)にあって白湯はアーマを浄化する」という点。重度の花粉症持ちでいつも薬頼りだったんですが、今年は白湯のおかげでいくらか軽減するかもしれないと今から花粉の時期が少し楽しみになっています。

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白湯を飲みはじめてかれこれ2週間が経ちましたが、胃腸がととのってきているからなのか便の調子がだいぶ良いです。あと体も心なしか軽い。

これに加えて非常に嬉しいのが、コンビニや自販機で飲み物を買うことを完全に撲滅できそうということです。

コーヒーやお茶を朝準備するのがどこか億劫で、マイボトル持ちに挫折しがちだったのですが、白湯はそれらよりかは手間がかからないという味をしめて、マイボトル持ちが当たり前の生活になりました。コンビニや自販機を見ても心が揺らぐことがなくなったのはかなり大きな変化です。

そして「白湯を補給できる白湯サーバーを街中に備えて欲しい」など、新しい欲求も芽生えてきました。切に願います。

こうして白湯の虜になってしまった僕は、SNSのプロフィールには「サユラー」という新たな肩書き?を加えまして、堂々と白湯好き・白湯愛をうたうようになりました。ちなみに、このプロフィールや白湯に関する投稿を見た人の中から「これ使ってみてくれませんか?」と商品モニターの依頼がいくつか来たりもしていて新たな出会いの予感も感じています。

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いい白湯を作るためには「いい水」が必要。そして、盛岡で飲んだてつびん白湯のあのやわらかさが忘れられない。

ということで今目下欲しいものは「いい浄水器」と「いい鉄瓶」です。

(部屋の中のもの、全部ジャスパーモリソンにしたい…..)

いい習慣を取り入れるとドミノのように関連する習慣がついてくることを「ドミノ効果」と呼ぶそうですが、白湯を飲むことを習慣にしたことで、冷たいものを控えるようになり、重たいものを過剰にとらなくなり、食事は21時までには必ずすませるようになったので「このことかあ」としみじみその効果を感じています。

白湯習慣をはじめてまだ1ヶ月も経っていませんが、白湯の効果は想像以上です。

僕の生き方を変えてくれた白湯に敬意を持ち、これからは「サユラー」として白湯習慣の普及活動をしていけたらと思っています。

いい白湯習慣のための「ブランド」も作りたいな。


Photo by Ihor Malytskyi on Unsplash

昨年こんなツイートをしてみました。

若い時は誰でも自分に優しくしてくれると思います。

しかしながら、歳を重ねれば重ねるほど「価値」か「好意」のどちらかを相手に示さないかぎり、どんどん「孤独」になってしまいます。

そして「価値」は上下するものなので自分でコントロールできないことの方が多いですが「好意」に関しては自分でコントロールすることができます。自分が好きな気持ちを持てばいいからです。

だからこそ、孤独にならないためにも歳を重ねれば重ねるほど「人を好きになること」が大切になってくると思うんです。

大人になるとみんなホメてもらいたいんだけど、みんながみんなそう思っているのでなかなか自分の順番が回ってこない。だから大人は寂しい。

これはクリエイターで漫画家のみうらじゅんさんの言葉なんですが、大人が孤独になってしまう仕組みを分かりやすく説明してくれています。

「本当にそうだよなあ」と思い当たる部分が多いのでときどき見返したい名言としてストックしているものです。

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今までの内容を整理すると、

大人になるとみんなホメてもらいたい

みんながみんなそう思っているのでなかなか自分の順番が回ってこない

だから大人は孤独になる

この通常フローに対して

大人になるとみんなホメてもらいたい

みんながみんなそう思っているのでなかなか自分の順番が回ってこない

↓ ←だからこそ自分から相手に「価値」か「好意」を示す

そうすると孤独にならない

シンプルに、このような仕組みに変えていくことができれば孤独は回避ができると考えています。これは僕自身かなり意識をしていることです。

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しかしながら、全ての大人が「価値」か「好意」を示せるのか?と聞かれれると僕は「そうではない」と答えると思います。

なぜなら、それができないから悩んで孤独になってしまっている大人も実際多いから。そのような大人はできないから自分の順番が回ってくるのを待つしかない。

こうした状況に対してヒントになりそうなのがこの記事。

関根勤さんは記事の中で「守護神」の必要性を説いていますが、この聞き慣れない「新しい役割」の重要性を僕は最近強く感じています。

「守護神」とは関根さん曰く、

「この人に相談すれば、絶対に自分のことを肯定してくれる」と思える存在ですね。

今の時代、そういう「無条件で人の味方になれる大人」が、世の中にもっと必要だと思うんです。

ということで、

学校でも会社でも同じだと思うんだけど、うまくいってない人は「育つ」なんてムリなの。

「育てる」前に、まずは前を向かせてあげなくちゃいけない。みんな、そこをすっぽ抜かしちゃってるんですよ。

まずは、その人の自尊心を「守る」。「育てる」のはそこからです。

一通り共感する記事で今も時々読み返します。

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また、記事の中では「守る」と「育てる」と役割を分けた方がいいとも説いていますが、これは何も他人だけの話ではなくて、自分にも当てはまることだと感じています。

どういうことかというと、一人で自分を成長させようとせず「誰かの力を借りる」ということです。

日本人は人に頼るのが下手と言われたりしますが、これは「自立せい」とか「1人で完結して一人前」といったような古き昭和のメンタル論により出来上がってしまった悪しき慣習だと思うんです。

人の力を信じて頼ってみる。これからの時代はこの力がより重要になってくるんじゃないかと思う今日この頃です。

Tanaka Shingo

現場と文献からの学びを発信しています

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